7月23日、私は一件のニュース通知を目にしました。

逮捕された医師は元厚労省官僚 「高齢者は社会の負担」優生思想 

京都ALS安楽死事件https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/314432

目に飛び込んで来た「優生思想」「安楽死」の文字。「これはただ事ではない」と危機感を覚えたのを覚えています。

概要を知った後に、夫にこの事件についてどう思うかと聞いたところ、

「まだ判決は出ていないので何とも言い難いし容疑者を擁護する気はないけれど、

『死にたい』と言っていた人に安楽死を促すのは悪い事なの?」

との答えが。

私はそこで初めて「この事件は人によって感じ方も捉え方も違う」と気がつきました。

案の定、これ幸いとばかりに「安楽死は個人の権利」と声高らかに発言する政治家、それに賛同する多くの意見をSNS上で目の当たりにしました。

あまりに多くの人が「優生思想」と「安楽死」を、混同してはいけない事に気付いていない様に見受けられ、私はこれ以上ない危機感を覚えました。

社会福祉士・区議会議員という立場で福祉に携わるものとして確信と決意をもって、安楽死と優生思想の議論を分けなければいけない理由を、そしてその先に有る希望をお伝えしたいと思います。

「安楽死」とは何か

そもそも安楽死とは、老いや障害などを起因とした様々な理由から医療の手を借りて自死を選択する事です。

安楽死には4つの分類があります。

①積極的安楽死:医師が自らの手で薬剤の注射などを行い患者を死に至らしめること

②消極的安楽死:患者の命を終わらせる目的で「何も(延命治療を)しない」こと

③間接的安楽死:緩和ケアなど、苦痛の除去・緩和により結果的に死期が早まること

④純粋安楽死:不治で末期の患者に対して、生命を短縮させることなく苦痛の除去・緩和を行うこと

日本では積極的安楽死は刑法上の殺人罪もしくは自殺幇助(ほうじょ)罪が適用されます。

一方で、医学的手続きをきちんと踏んだ消極的安楽死と間接的安楽死、そして純粋安楽死については適用されないとされています。

今回の事件を受けて「実は日本でも実質的に安楽死が行われている」という意見が多く寄せられましたが、それは消極的安楽死と間接的安楽死についてのものです。

また今回の事件では「尊厳死の合法化を」という意見も多く出されました。誤解している人が多いのですが、尊厳死と安楽死は違う言葉です。

尊厳死:患者が自らの意思で、延命処置を行うだけの医療をあえて受けずに死を迎えること

安楽死は家族や他人の意思により決定される場合も有りますので、尊厳死とは異なる場合があります。

今回のALS患者に対する安楽死は医師が薬物を投入したことによる積極的安楽死であり、そして尊厳死に”見える”ものでした。

この事件を踏まえた議論もそうですが、今の日本における安楽死の議論とは「いかに合法的に積極的安楽死と尊厳死を行うか」という観点で進められています。

一方で、国際的には積極的安楽死と尊厳死を「個人の権利」として肯定的に捉える考えが広まり始めています。

安楽死先進国と呼ばれるオランダでは、事前に指示を書いている認知症の方は医師の判断で積極的安楽死をさせても良いと認められています。驚くべきことに2017年にはそもそも病気を患っていない75歳以上の人なら誰でも希望すれば積極的安楽死が認められ、翌2018年には知的・発達障害者にも対象が広がっています。

なぜこの様な国では日本では違法である積極的安楽死と尊厳死が合法的に認められているのか。安楽死先進国と呼ばれる国々と日本においては人権に対する考え方、宗教的背景、死生観等様々な違いがありますが、大きな違いが2つ有ります。

1つ目が医療体制です。

オランダでは国に対し”かかりつけ医”を登録するという制度があります。つまり患者と医師との関係が一生涯続いており、深い信頼関係に基づいた患者の意思への理解が存在しているという事が解ります。安楽死には患者の意思を尊重する医療体制が必須だからです。

2つ目が同調圧力です。

安楽死先進国では他者の価値観の違いを受け入れる国民性が強く、他人の生死に干渉しないという考えが浸透しております。そのため異なる価値観を持つ他者に対しての同調圧力が発生しません。この国民性においても日本とは明らかな違いが見受けられます。

この様に合法的な安楽死とは「他者の意思・価値観の尊重」が前提となっています。そうやって初めて安楽死が他者の命を奪う殺人ではなく「他者の命の肯定」となるのです。

*「優生思想」とは何か

一方で優生思想とは、生まれながらにして平等であるはずの人間に対し生産性という言葉で優劣をつけ他者を否定し、命の選別を行うことで社会への負担を減らすという偏った考え方です。

優生思想とは「他者への偏見」がもたらす「他者の命の否定」です。合法的な安楽死とは全く矛盾するものです。

優生思想は19世紀の終わりから私たちの生きる21世紀まで形を変えながら存在し続けています。

そんな優生思想の恐ろしさがこれ以上ない形で現れたのがナチスのT4作戦、そして津久井やまゆり事件です。

津久井やまゆり事件を起こした植松死刑囚は「重度の障がい者は安楽死させるべきだ」と発言して凶行に及びました。植松死刑囚は事件が起こる以前に「障害者施設で働く事は天職である」とまで発言をしていたのにも関わらず、優生思想を振りかざし45人もの入所者を殺傷したのです。

植松死刑囚は「『お金と時間』こそが幸せだ、と考えている。重度・重複障害者を育てることは莫大なお金・時間を失うことにつながる」と主張しました。人の価値を生産性で測る思想に染まっていたのです。

これはナチスのT4作戦と呼ばれる惨禍を招いたヒトラーと全く同じ考えです。

ヒトラーは障がい者は生産性が無く、安楽死させることが慈悲であるという考えに基づいて安楽死政策であるT4作戦を進めました。生産性という物差しは障害の有無からやがて人種へと変化し、ユダヤ人の大虐殺へと繋がりました。

年齢や障害で人の幸不幸を測る優生思想をわずかでも社会が容認してしまうと必ずエスカレートし、そのうちに性別、人種、才能、容姿、思考などで人々を分断するのです。

日本においても戦後50年近くに渡り障がいへの無知・不安に基づいた旧優生保護法が実施され続け、人々を分断し続けて来ました。これはまさに障がい者に対する優生思想そのものでした。

優生思想の恐怖を私たちは歴史から学び、認め、同じことを繰り返してはならないと自覚する必要があります。

しかし今日もなお、優生思想は猛威を振るっています。コロナ禍で人々の間に余裕がなくなり医療体制の崩壊が危ぶまれた中で「なるべく若い患者に呼吸器を」という命の線引きが世界各国で受け入れられてしまいました。

何より恐ろしかったのはこの様な状況下であっても「高齢者を差別するな」という声が聞こえてこなかった事です。

年齢で人々を区別する事は紛れもない差別であり、優生思想に基づくものです。

優生思想は一部の人間が隠し持つ危険思想ではなく、今もなお人々の心の闇に潜み続けているのです。

*両者の議論は別物だが、互いに影響し合うという危険性

今日のコロナ禍の様に人々が心理的に余裕がなくなり社会的資源が不足する緊急事態下において、普段は身を潜めていた優生思想が社会的コンセンサスの様に形作られていく事は珍しくありません。

平常時には「差別をしてはいけない」という歯止めが掛かりますが、「非常時だから仕方がない」という言い訳を理由に差別が始まります。そして「多数の考え」という根拠で社会的に容認されてしまえば、それは誰にも止められず加速し続けます。そして恐ろしい事に危機が過ぎてもその考えが定着してしまうのです。

そんなある種の優生思想が横行している今この状況においては、安楽死の是非について語るのは非常に危険であると言わざるを得ません。

なぜなら「安楽死」と「優生思想」は先述した様に全くの別物なのに、相互的に強く影響し合うからです。

特に日本においては個の主張を重んじる事よりも争いを避けようとする同調圧力が強く強く働きます。

日本と外国でのそれぞれ教育を受けてきた私はこの違いを身を以て体感してきました。

「周りがそう思っているのだから、自分自身もこの考え方で間違いないだろう」という安心材料を日本人は求めている様に感じています。もしも安楽死が合法化された日本社会で人々が安楽死を選ぶか否か考えるとき、「他人の意思が全く干渉しない、100%自分自身の意思」に基づいて考えなければなりません。

しかし日本人が自分の命を考えるときでも判断材料の一つとされてしまう恐れがあるのが社会的なコンセンサス、つまり優生思想です。

「誰かに助けを求めてでも最期まで人生を全うしたい。」

「他人が自身の死を望んだとしても最期まで人生を全うしたい。」

安楽死が合法化された社会においても、生きたいという意思は不可侵なものでなければいけません。

しかし優生思想が蔓延した社会では「高齢だ」「障がいがあって働けない」「誰かの迷惑になってしまう」といった他者がもたらす価値観や周囲の目を気にして、安楽死を選択してしまうという状況が産まれてしまいます。

そんな事は絶対に避けなければいけません。だから優生思想による安楽死判断への影響力を否定できない限りは両者を同時に議論したり、一緒くたにする事は非常に危険であると考えます。

そしてこれが今回のALS患者の死をきっかけに安楽死を議論してはいけない理由です。

今回の事件はあくまで安楽死に見えるだけで、全く違うもだと考えるからです。

*まとめ:社会福祉士として考える「安楽死の議論のスタート地点に立つ」為の、

目指すべき社会のあり方

「自然界は弱肉強食、だから優秀な生き物が繁栄する事は自然の摂理だ。」

真っ向から優生思想に立ち向かうと、この手の主張が幾度となくぶつけられます。

私にとって優生思想に立ち向かう事は叡智を持つ人類としての最後の抵抗です。ソーシャルワーカーとして誰もが暮らしやすい社会の実現を夢物語として諦めるつもりはありません。

しかしながら、私は人がどうしても「死にたい」という気持ちやその権利を否定する事は出来ません。その点は安楽死を肯定する人々とも共通する点と認識しております。

私自身が戦っているのは安楽死の是非ではなく、優生思想です。

そもそも人が「死にたい」と感じ始めたら、真っ先に行うのはメンタル面でのサポートであるべきだと考えます。

「自殺はいけません、安楽死は違法だから出来ません、生きてください」と言うだけではあまりにも無責任です。

全身を動かせないALS患者の絶望に寄り添い、競争社会に疲れた人々の心の苦しみを取り除き、未来への希望を共に育む。

誰にでも寄り添い、誰もが生きる為に必要とされる。それが福祉の本来の役割です。

当事者へのエンパワメントと福祉の力を強化し、体制を整える事が求められています。非常時だからと人を選別する事はあってはならず、あらゆる想定に備えて社会資源を蓄えておく必要があります。

新型コロナウイルス感染症がもたらした混乱下の様に、人は得体の知れないものや恐怖と対峙した時、他責にしたり他害的になる傾向を感じる事が多々ありました。

一方で他人を思いやる「互助の精神」が発揮され、多くの人の心を動かした場面も目の当たりにしました。

私たち人間は「お互い(他者)の生きる権利を尊重し合う」事であらゆる困難を乗り切れるのです。他者を大切にすれば自身を大切にする事にも繋がります。この「相互扶助」が前提としてある社会であってこそ、初めて人としての最後の尊厳を尊重するために安楽死について考える事ができるのではないでしょうか。

逆に言えば、適切な安楽死の議論は他者に対する「尊重」と「相互理解」を生み出します。そして優生思想は他者に対する「無知」と「無関心」によって生み出されるものです。つまり、適切な安楽死の議論は優生思想を終わらせる力を持っているということです。

繰り返しとなりますが私は安楽死の議論を否定しているのではありません。

優生思想と安楽死の混同を危険視し、まずは優生思想への終止符が必要と考えています。

今回の事件をきっかけに安楽死の議論が活性化しています。

私は優生思想と混同した危険な意見には断固として戦いますが、安楽死の議論そのものの盛り上がりは人が人を尊重する事の第一歩として社会に受け入れられて欲しいと思います。

ここで適切な安楽死の議論が出来れば、優生思想の終焉に繋がるからです。

福祉は特殊な世界ではない事、個人責任論に依るものではない事を改めて認識した上で、前向きな安楽死の議論が行われる事を願っています。

その結論とそれがもたらす優生思想の終焉を見届けるのは今を生きる私たちであると信じて止みません。

さんのへ あや

<参考>

難病ALS女性を安楽死 医師2人を逮捕へ、嘱託殺人容疑 京都府警

逮捕された医師は元厚労省官僚 「高齢者は社会の負担」優生思想 京都ALS安楽死事件

医療崩壊を防ぐためなら高齢者と貧困層は「死んでもしょうがない」か

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